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2006 - 5 /27
さようなら、さようなら
いつものように 4時に起き、いつものようにNHK第2の「音の風景」を聴き、いつものように体温を測り、いつものように朝食をすませました。
音もなく静かに時間が過ぎていく土曜日の病棟で、ぼくは最後の点滴を待ちます。
9時を過ぎて、モデルさんがカートを押してやって来ました。
バナナ注射はすんなり入ったけど、点滴の翼状針に悪戦苦闘です。
何度も何度も刺し直して、5回目くらいでようやく命中したようです。
皮膚の上から刺し直すのではなく、いちど刺したらその内側で血管を探しながら、何度もトライしていました。
「すみません、探ってしまいました」
と謝られましたが、別に痛いとかそういうのは全然ありませんでした。
昨日の件もあって、自分は血管が探しにくい腕をしているのだな、ということがよく分かりました。
そして、最後の点滴がぼくの左腕に繋がれました。
静かに落ちるピンクの液体を、今年は一度も触れることができなかった桜の花を思い浮かべながら、慈しむように一滴一滴を数えていると、すうっと眠りに引き込まれていきました。
浅い眠りから覚めると、点滴はもう終わりかけていました。
ぼくは眠りの中で、このベッドの周りで起きたいくつかの出来事を、思い出していました。
それらは、朝の陽の光の中で柔らかなかたちを成して、この部屋の中に漂っていました。
それまでいた場所から 突然ぷつんと切り離され、初めて見る世界、初めて会う人たち、小さな社会。
ここで2週間、まったく別の人生を経験していたようでもあり、ささやかなバカンスに出掛けていたようでもあり、それが終わってしまうことと、ぼくが健康体になることとがイコールであるという事実を、ぼくはまだうまく結像することができませんでした。
だけどこの点滴が終わるとぼくは、もとの人生に戻らなきゃいけないし、バカンスを延長することもできません。
そして現実問題として、いまぼくがいるのは病院であり、ここにとどまり続けるというオプションは、あり得ない種類のものなのです。
やがて点滴が落ちきり、ぼくはナースコールをしました。
看護婦さんがやってきて翼状針を抜き、ここでの治療はすべて終わりました。
同じ病室の人たちに挨拶をして部屋を出、ナースステーションに挨拶に行きました。
今日は土曜で看護師さんが少なく、見慣れない方たちばかりでした。
お世話になった方々に、きちんとしたお礼を言えずに退院してしまったことが、心残りといえば心残りです。
引っ越しの時に、遠ざかっていく住み慣れた町並みを、バックミラー越しに見ているような気持ちで、病棟をあとにして、階段を下り、人気のない外来を通り過ぎ、ゆっくりと病院を出ました。
外に出ると、南中した太陽に眩しく照りつけられ、ぼくは目を細めました。
病院にいる間に、季節は確実にひとつ前へ進んでいました。
桜は散り、森は青々と繁り、あたりには色とりどりの花が咲いていました。
山の上では雪が融け、町ではあちこちで神社祭りが行われていました。
ランタン族元素のように稀少な北国の春を、今年はひとつ不意にしてしまいました。
だけど、ぼくがその間に経験したことは、宇宙の果てにあるまだ誰の目にも触れたことがない、未知の鉱物の結晶です。
その鉱物が放つ淡い光が、これからぼくが歩いていく道を照らしてくれるよう、この経験を大切にしていきたいと思います。
おしまい。
投稿者 hamayo : 2006年5月27日 20:21
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